昭和46年06月19日 朝の御理解



 御理解 第93節
 「氏子は神の守りをしておる者を神と心得て参詣する。守りが留守なら、参詣した氏子は、今日はお留守じゃと言おうが。神の前をあけておくことはできぬ。万事に行き届いた信心をせよ。常平生、心にかみしもを着けておれ。人には上下があるが、神には上下がない。人間はみな同じように神の氏子じゃによつて、見下したり汚ながったりしてはならぬぞ。」

 取次者に対する厳しい態度を教えて下さったのでしょうね。今日は此処の一字一劃からの意味合いと言う様なものでなくて、皆同じように神の氏子じゃに依って、見下したり汚ながったりしてはならぬぞと、教えておられるところを頂いたと思います。それには常平生の信心がしっかり出来とらねばならん。かみしもを着けた様な信心とは、人には上下があるが、神には上下がない。人間は皆同じ様に神の氏子じゃ。
 またの御理解に人を軽う見な軽う見たらおかげはなしと仰せられますが、人を軽う見な軽う見たらおかげはなしと、いわゆる人を見下したり、汚ながったりしてはならぬとこう言うのです。私達が信心をさして頂いて、まあ此処んところ迄わからして頂いたら、もう大丈夫と言うところがあろうと思いますね。何の稽古も同じ事で此処のところ迄覚えさして貰うたら、もうその事が楽しうなり有り難うなる。おかげを受けて行くならここのところ迄は、分かっておかねばいけないとこう思う。
 そういう意味で私はここん所おかげを頂いて、人を軽う見たり見下したり、汚ながったりせんで済む様になる。これはまあ人だけではありませんよ御ものでもそうです。御ものを御ものとして生かす事を覚えたと、最近では御事柄と言うが、もうこの位の事はよかよかと言うた事のない、御事柄を御事柄としてそれを実意に受けて行けれる、そういう頂き方、ものの見方、感じ方が出来る様になる迄は、私は信心はしっかりさせて頂かねばいけんと又あの御理解に、向こうへ降りたら安心じゃと言う御理解がありますね。
 だから向こうへ降りたら安心じゃと仰しゃる、その安心じゃと言うことは、ここのところの辺じゃなかろうかと、もうあの氏子は大丈夫と、神様が安心して下さるところ迄の信心だと思う。神様が安心して下さるのですからもう安心です。それはもう信心を究めて行くと言うことは限りがないですから、限りがないです。けれども信心させて頂いて、天地の大恩を分からせてもらい、天地の事訳を分からせて貰うてです、本当に今迄の生き方の目の粗かった事を気付かせて貰うてお詫びさして貰うて。
 物事に対する又は御ものに対する、又は氏子同志に人間に対する、見下したり汚ながったりせんで済む、生き方を身に着けさせて頂く。そこん所が出来た時に、私は神様もまた安心して下さると思います。いうならば神様が安心して下さる事はね、神様が安心しておかげを下さる事が出来ると言う事なんですよ、例えばお金に難儀をしておると、お金を本当に浄財として汚れた事やら、不必要な事にです使う事はないと、もうこの氏子はしないと見極めなさった時、お金は不自由せんで済むおかげを頂かれると思います。
 ところが、そこんところは人間がお金が入って参りますと、すぐ財布の紐を緩めてしまう、そして何にもならない事やら、それこそ身の程を知らぬ様な事柄に贅沢をしたり、使ったりすることが、これでは神様が安心して下さらんですね、今ここんところへ、おいさみ下さったです。バリバリと御結界からここんところへ今。矢張りそうなんですよ。だから成程甘木の初代辺りがね。
 お金をこと神様事に使う時には百円の銭を使うでも、一円の金を使う様な、それが本当に神様の御役に立つ事ならば、自分の身も体も鴻毛の軽きに置くと言った様な生き方、かと言って反対に自分の事柄にお金を使う時にはです、一円の銭を使うでも、それこそ百円もの金を使う様な思いで使うと教えられたそうですね。成程それを実行し続けられました。そこに甘木の初代の素晴らしさがありますね。
 所がどうでしょう、自分の事に使う時には最高の良かっから使おうとする、神様の時には二級品か三級品で、そういう心掛けでは何時迄たっても金に不自由しますよ。本当の意味に於いて、その人が持っておる持ち物なんかを見ると、もう本当に一級品、所が神様には二級品か三級品位な程度にしか使いきらん。自分の命とか体自分の食物だけでもお食物、いわゆる大酒大食をして自分で自分の体を害してしまう。神様の御身体である。
 いよいよ一旦緩急の時には身を鴻毛の軽きに置いて、神様の御用にも、世の御役にも立たせて貰はねばならぬ程しに大事なこの身体であるから、無駄な事にお粗末にしたり、身体を痛めたりする事は、神様へ対する御無礼だと言う様なところが分かったら、もうこの人は絶対健康のおかげを頂くだろうと思いますね。もの金、それは人の場合でもそうである。それを本当に徹底してやっておられますですね、お徳を受けた方達は、どんなに美味しいものがあると言うてもです。
 私ども今日ここんところを頂いてから、これはもう本気で一つ、私は大体いやしん棒ですから、美味しいもんがあると言えば頂き過ぎてから、そして後から難儀をする、ああこれでは何時迄たっても健康のお許しは頂かんなと私は思うた。軽う見とる自分の体を、それをですね本当にお徳を受けた方達はです、そういうところを取り分け大事にしとられます。例えば人の場合もそうです。
 あれは何時の時代ですかね、光明皇后と言う方が居られましたね。千人風呂を造ってその世の中の難儀な、医者にも薬にもかかれない、薬が頂けないと言う人達を皆集めて施療をなさった。そして大きな温泉を開いて、そこで難儀な人達を助けられたと言うのです。それこそ仏様の様な御心がけ、神様の様な御心がけなのです。ところが或る日、もうそれこそ体から「しる」が流れる様な病人がね、どうぞ助けて下さいとやって来た。それこそ今日の此処で言うなら、それこそ見る目にも汚らしい。
 体から膿が「しる」が出ておる、その人間その病人をです、親切に手厚く介抱されただけでなくて、その膿の出ておるそこへ、自分の口をあてて膿を吸い出されたと言うお方であった。いうなら汚いと言うそれを、返ってむしろ大事にしておられる訳であります。だから徳を受けた方達はかならずそうです。ただここんところをですね、立派なもの、汚いものを一様に見ると言うのではなくて、むしろ汚いものを余計に大事にしておると言う生き方なんです。
 ところが、その体から膿しるが流れる様な病人が、仏様の化身であったと。これはね私は嘘じゃないと思うのです。いわゆる本当に優しい、本当に神心、仏心の強い、だからどこ迄その神心が、仏心があるかを、矢張り神様仏様が試しなさる必要を感じなさる訳です。ところがどっこい、むしろ汚いもの、むしろ人が相手にしない様なものをかえって大事にされる、そこに神様のと言うかね、仏様の安心があったでしょう。そこでこそ身は光明皇后とまであがめられた様になられた訳なんです。
 私がいつも申します本当のおかげ、お徳と言うものはね、私どもが及びもつかない処にそっとしまってある様なもんだ、いうなら丁度宝探しの様なもの、簡単に人の目に付くような処にはその宝の札は入っていない。もう出来るだけ人の気の付かんごたるところ、いうなら汚らしいところの下に置いてある。もう見向きもしょうごとない処を丹念にこうやって調べてみると、その下に宝のくじが隠してあったという様にです、これはもう絶対にそうです。これはもう私の体験からいえます。
 もう本当にあの人間は好かん人間だなあと、自分の性格に合わないと、性格に合わんとば好かん嫌いとか、ところがね、合楽の場合等はもう絶対、私のあまり好きでない人達が御役に立つてるです。例えば一例を申しますれば、飯塚の古賀先生なんかそうです。椛目に参りましてから、もう一週間目位でしたかね、急に体が弱くなって医者を呼ばんならん様になった、善導寺の香月さん、善導寺の御信者さんですけど、が来て下さった。帰りに大坪先生、この病人は永く持てんから早く帰しなさいと言わっしやった。
 だから私があん時に、これは早く家で養生したらよかばいと言うてから、帰して居ったらどうだっただろうか、いま熊本当りに支部が出来たのもその縁であった。伊万里支部が出来たのも、竹内先生が導かれなさったのも古賀先生じやった。もう向こうに帰さなければおられないごとあるとの向うに、本当のおかげがひそんでおると言う事が分かるでしょうが。だからおかげを頂くと言う事は、神様が安心しておかげを下さる事、それはです人を見下したり、汚ながったりしてはならんと、一様に扱えと言う事なんである。
 お金ならお金でも、もうこれは始末倹約も覚えたし、決して自分の贅沢のために使うことはない、持たせればもう直ぐパッパッと使う者に、安心して金を与えなさる筈がないと絶対、本当のおかげはですよ。それこそ甘木の初代じゃないけれども、例えば百円の銭を使わして頂くでも、その当時一円と言うことは、一円を使うにもそれこそ百円使うごたる気持ちで勿体ない相済みませんで使われた。もうこれなら神様が安心してお金の自由を与えなさるであろうとこう思う様にです。
 こういう人を自分方に関わり合いのあってはならんと言うて、私があれはいらん、これはいらんと言うて返しとったら、現在の合楽は開けてはおりません。これは古賀先生だけの事ではありません。一事が万事そうなのであります。むしろ私はそういう処を大事にした。その向こうに言わば宝のくじが隠してあった様なもの、ただ一様に皆んなを大事にするのじゃなくて、むしろです体から膿しるが流れる様なのを大事にされた、そこに光明とまで崇められる程しのお徳を受けられた。
 だからね、お徳を受けられた先生方の場合なんか、それこそ表には木綿ものを着とっても、裏の方には絹ものを付けられた言う様な信心をなさった訳です。外側よりも内容が素晴らしかった。万事に行き届いた信心をせよと教えておられます。私は万事に行き届いた信心とはね、そういう信心だとこう思うです。まあ万事にである。この事は出来る、人間だけは平等に扱う、人間だけは、いやむしろ人が嫌う様な人を大事にする、そこまでは出来とってもお金の方になって来ると違う。
 お金をあの人に握らせさえすりゃもう手に汚いもののついたごと使わにや気の済まないと言う人がありますね、だから万事にと言う事です。なら私どもも大体おかげを頂いとる様に思うけれども、こと食べものと言う事になって来るとね、それこそ普通二杯食べよるとは三杯でもね平気で食べる、そしてああ胃が悪かとか、水を沢山飲まんならんという結果になっとる。私はここんところを頂いて、いやしん棒を本気で止めにゃいけんなと、でなかったら本当に健康のおかげは神様は下さらん。
 神様に御用に使うて下され、末永う御用に使うて下されと言うて、長生きしたいばかりに言うておるですね。お役に使うて下され処がさあと言うて使いなさる時には、力も無からなければ、それこそ布団の牢にども入っとる様な人をです、病弱であっては使うて下さる事はできん。口ではお役に立ちたい、お役に立たせて下さいと願いながら、自分の体を粗末にしとる軽う見ておる、神様の頂きもの神様から頂いたこの体と言いながら、その頂いた体をお粗末にする様な事では、何時まで経っても私は健康は恵まれん。
 私は自分自身そこんにきを今日感じさせて頂いた様な気がする。だから皆さんそういう、いやしん棒はなさらんでしょうけれども、ならお金の事を一つ思うて見て下さい、ものやら事柄のことを一つ思うて見て下さい、対人間の場合を思うて見て下さい。軽う見たり汚ながったり、いわゆる万事に行き届いた、信心が出来ていないそこんところを、とりわけ大事にして行くおかげを頂いて行かねばなりません。その為にはやはり常日頃かみしもを着けた様な信心。
 何時もその事に心掛けさせて頂いて、かみしもを着けたと言う事はキチッとした信心と言う事でしょう。万事に行き届いた信心させて頂いて、これは人だけではありません。人間は神の氏子と仰しゃるが物でも、物は一切の神様のお恵みのものとして御の字をつける、事柄でも同じ、御事柄として頂くと言う、むき出したり汚ながったりするだけではない、そういうむき出さなければおられない様な、また汚い様なそういうものを、むしろそういう所を大事にさして貰うところにもうおかげの世界ではなくて。
 徳の世界がそこにあると言うふうに思うのです。神様がもうこの事だけはこの氏子は大丈夫と思し召したら、健康なら健康を下さるでしょう、お金ならお金をもう大丈夫という見極めがついた時、安心がついた時に私ども、お金ども心配する事はない。お金の事なら何時も安心という様なおかげが頂かれるでしょう。神様が安心して下さる事の出来れるおかげ、そういう受けものをね、作らせて頂かねばいけんと思いますね。
   どうぞ。